静岡地方裁判所 平成6年(ワ)121号 判決 1995年12月15日
主文
一 被告は、原告に対し、金三〇〇万円及びこれに対する平成三年九月一三日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
三 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
理由
【事実及び理由】
第一 請求の趣旨
主文同旨
第二 事案の概要
一 本件は、原告が、被告に対し、期日指定定期預金払戻請求権に基づき、元金三〇〇万円及びこれに対する平成三年九月一三日(預入れの日)から最長預入期限である平成六年九月一三日までの年六分の割合による約定利息金と右元金に対する平成六年九月一四日から支払済みに至るまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払いを求めた事案である。
二 争いのない事実等
(以下、証拠の掲記のない事実は当事者間に争いがない。)
1 被告は、銀行取引を業務とする株式会社である。
2(一) 原告は、自己を称するものとして「甲野春子」なる名称を用いることがあったものであるが、被告との間で平成二年一〇月一八日「甲野春子」の名称を用いて普通預金取引を開始し、平成三年七月二二日からは、同名義で定期預金取引も開始し、総合口座を利用するようになった。原告は、同年九月一三日夫である甲野太郎の実父甲野松太郎を代理人として、期日指定定期預金として金三〇〇万円を、据置期間一年、最長預入期限平成六年九月一三日、利息につき、預入期間二年以上は利率年六分、同二年未満は利率年五・七五分とする約定で預け入れた。
(二) 右期日指定定期預金とは、昭和五六年六月一日から取扱いが開始された定期預金で預入期間を最長三年とし、預入後一年間の据置期間経過後の任意の日を満期日と指定することができる預金で、預金者が満期日を指定する場合には、その指定は一箇月前までにしなければならず、指定がなければ最長預入期限が満期日となるという定期預金である。
3 原告は、平成五年一〇月一五日頃から同月二二日までの間に何者かにより、自宅で保管中の右2の(一)の総合口座通帳(以下「本件預金通帳」という。)と届出印鑑とを窃取された。
4 平成五年一〇月二二日、氏名不詳の男(以下「男」という。)が、被告の静岡支店(静岡市御幸町八番地所在)に来店し、窓口係に「甲野春子」名義の本件預金通帳と届出印鑑を差し出し、本件期日指定定期預金三〇〇万円の払戻請求をなした。その際、右払戻請求に関し、一箇月前までの満期日の指定はなされていなかったものの、被告担当行員は、払戻請求をなした男に払戻請求権限があるものと判断し、同人に対し、元金及び同日までの利息(税金を控除したもの)として合計三三一万三九二九円を支払った。
三 争点
被告の本件弁済は、債権の準占有者に対する弁済として有効と認められるか。
1 被告の主張
被告担当行員は、平成五年一〇月二二日被告の静岡支店を訪れた男が、本件預金通帳と届出印鑑を所持して本件払戻請求をなしたことから正当な権限を有する者であると信じ、かつ左の(一)のとおり無過失により本件払戻しに応じたものであるから、右払戻しは、民法四七八条により債権の順占有者に対する弁済として有効である。したがって、本件期日指定定期預金債権は、右弁済によって消滅したというべきである。
(一) 被告担当行員は、男が本件預金通帳と印鑑を所持していること、払戻請求書に押捺させた右印鑑による印影が被告の保管している印鑑票に押捺されている届出印鑑と一致すること及び盗難、紛失等の事故届のないことをそれぞれ確認し、そのうえで、払戻請求をなした男に対し、払戻金の用途を尋ねたが明確な回答は得られなかった。そこでさらに、身分証明書の提示を求めたものの、以前の解約の際には求められなかったといわれたことから、かかる解約の事実が存在することを本件預金通帳で確認したうえ、女性である預金名義人本人の生年月日を尋ねて、「昭和二五年一一月二八日」と正確な回答を得られたことから預金名義人本人の家族であろうと判断し、その他特に怪しいところもなかったことから本件払戻しに応じたものである。
(二) 据置期間経過後の期日指定定期預金払戻しの際の銀行の注意義務の程度について
(1) 期日指定定期預金の場合、据置期間である預入日から一年間の中途解約は期日確定の定期預金の中途解約と同じであるが、据置期間経過後、指定日前に払戻す中途解約は、期日確定の定期預金の中途解約とは法的性質が異なる。すなわち、期日据置期間経過後は、預金者において期日指定をすることで何時でも払戻請求をすることができるのであり、この期日指定は、払戻請求の予告であり、払戻請求予定日を告知することにほかならない。また、この期日指定があっても、その日を確定期日とする定期預金に変わるわけではなく、その期日後一箇月経過すれば、期日指定の効果が失われるのであるから、期日指定が定期預金契約の内容を変更するものでもない。したがって、据置期間経過後の期日指定定期預金債権は、一箇月前の予告を必要とする最長預入期間三年の定めのある不確定期限付きの預金債権ということになる。そして、その一箇月の期間は、専ら銀行の利益のために認められたものというべきである。
そして、期日指定のない場合、または期日指定の到来前に預金者から払戻請求があった場合、銀行としては期日指定がないこと、あるいは指定期日が到来していないことを理由として支払を拒むことは可能であるが、右不確定期限付きの預金としての性質からしてこの抗弁を主張せずに銀行に認められた期限の利益を放棄して払戻しに応じることも可能である。実務的には、銀行は期日指定の有無にかかわらず請求があれば払戻しに応じているのであり、かかる法的性質及び実務的運用に鑑みると、期日指定のない払戻しであっても、銀行に期日確定の定期預金の中途解約の場合のような加重された注意義務は課されていないと解すべきである。
また、預金者側の、銀行が期日までは保管しておいてくれるという期待も、据置期間経過後の期日指定定期預金の場合は、その一箇月前までの予告は預金者らしくみえる者からもなされ得るのであるから、一定時期まで確実に保管されるという期待は、期日確定の定期預金に比べて低いということができる。
(2) 一般に銀行の免責の有無は、円滑な払戻しを確保することによって得られる一般顧客の利益保護と、無権利者に支払われることはないとの預金者の静的安全との比較衡量で決定されると考えられる。
期日指定定期預金は、昭和五六年に取扱いが開始されて以来、顧客に提供している商品であるが、右(1)のように銀行が据置期間経過後顧客から期日指定を受けることなく払戻しに応じていることから、顧客側としても期日指定定期預金は据置期間経過後、原則として何時でも払戻しが可能だと考えているといえる。そうだとすれば払戻しの際に要求される銀行の注意義務の程度も、満期の到来した定期預金の払戻しと同程度でよいと解すべきであり、仮に若干加重されるとしても満期の到来していない定期預金を期日前に払戻すほどには加重されることはないというべきである。
(三) 被告に要求される注意義務の内容について
満期が確定している定期預金の中途解約に際しては、当該払戻請求に関してその同一性に疑念を抱かせるような特段の不審事由が存しない限り、<1>預金証書と届出印鑑の所持の確認、<2>事故届の有無の確認、<3>中途解約理由の聴取、<4>払戻請求書と届出印鑑票各記載の住所氏名及び各押捺された印影の同一性の調査確認をなすことで足りるとされており、本件は右(二)の(1)及び同(2)記載のとおり、据置期間経過後の期日指定定期預金として右期日確定の定期預金の中途解約よりも軽い注意義務が課されるに過ぎないというべきであるが、仮に、期日確定の定期預金の中途解約と同程度の注意義務が課されるとしても、右(一)のとおり、右<1>、<2>は履行し、<3>についても具体的回答は得られなかったものの、質問を行っている。また、<4>については、印影の同一性は確認し、住所は払戻請求書の必要的記載事項ではないことから記載を求めていないが、その代わりに生年月日を尋ね照合しているものである。加えて、被告は、本件において、窓口係員のほか担当役席者が対応し、都合二度にわたって面接し、その間相手方に正当な権限がないと疑わせる特段の事情は存在しなかったものであり、したがって、被告は、預金払戻しに当たっての注意義務を尽くしており、過失はないものといわなければならない。
2 原告の主張
(一) 本件期日指定定期預金は、期日指定がなされておらず、また、最長預入期限が到来していないものである以上、満期前の定期預金である。そして、原告と被告との間で交わされた契約である期日指定定期預金規定書(甲第一号証の二)[1]の2、同[2]の1によると、期日指定定期預金は、期日指定がなされて初めて満期日が定まるのであり、かかる期日指定がなされていない以上、通常の定期預金の満期前解約の場合と同様の加重された注意義務が課されるべきであり、被告担当行員には次の過失がある。
(1) 被告担当行員は、中途解約を求める理由を事実上聴取していない。すなわち、右中途解約理由を聴取するとは、中途解約を必要とする具体的事情を聴いて初めて、中途解約理由を聴取したといえるのである。被告担当行員が聴取したのは「金が必要になった。また、お金ができたら預金する。」というだけであって、およそ中途解約理由の聴取といえるものではない。
そして、何のために金が必要であるかを聴き、その理由が合理的で金の必要が納得できる場合でなければ銀行は、中途解約に応じる必要はないのである。したがって、これを履行していない被告担当行員には過失がある。
(2) 本件払戻請求書によると、住所の欄は白地のままで何ら記載されていない。被告担当行員において、男に住所の記載を要求していれば、記入ができず、通帳と届出印鑑の窃盗犯人であることが判明したはずであり、住所を記入させなかったことは被告担当行員の過失である。
(3) 被告担当行員は、男に対し、取引開始日、最終取引日、残高の概要などについて聴取すべき義務があるにもかかわらず、何ら聴取していない。
(二) 加えて、被告担当行員は、男が本件期日指定定期預金の名義人本人でないことを認識していたのであり、かかる者から満期前の払戻請求を受けた場合、銀行員としては右請求者の払戻請求権限の有無を確認する義務があるのであって、被告担当行員にはこの点につき次のような過失がある。
(1) 代理人が来店した場合、被告担当行員は本人に直接来店するよう要請すべきであり、また、本人の来店が無理な場合は、委任状の呈示を求めるべきである。にもかかわらず、被告担当行員はいずれも履行していないのであるから被告担当行員には過失がある。
(2) 被告担当行員は、原告の意思及び払戻請求権限の有無を確認するため、被告の所持している支払伝票に記載されている原告の連絡先に電話をなすべき義務があり、かつ右履行は容易になし得たにもかかわらずなされなかった。
(3) 預金者本人以外の者が来店した場合、被告担当行員はその身元を確認する義務があり、にもかかわらず身分証明書、運転免許証、健康保険証等の呈示を受けていない。
(4) 被告担当行員は、男が本人でない以上、受取人としての署名捺印を求める義務があり、にもかかわらずこれをなしていない。
(三) 被告担当行員は、男に原告の生年月日を尋ね、正しい回答を得たとしているが、そもそも「甲野春子」とは、原告の実名ではなく仮名であり、本件預金通帳に仮に使用した名前である。よって、戸籍謄本にも住民票にも「甲野春子」という名前は出てこないのであって、男が原告の生年月日を正確に答えられるはずがない。したがって、右担当行員の話は極めて疑わしいものである。仮に、かかる事実があったとしても、被告担当行員が身分証明書等で男の身元を何ら確かめることなく、原告の正確な生年月日を答えたとの事実のみで何ら疑いを抱かず、大金である三〇〇万円を全額支払ったとしたならば、それ自体過失というべきである。
3 原告の主張に対する被告の反論
(一) 原告は、被告担当行員が中途解約理由の実質的聴取をなしていないと主張するが、据置期間経過後の解約事案である本件には、中途解約理由の聴取は被告の義務とはならないというべきである。仮に義務であったとしても、被告担当行員は、一応、解約理由を尋ねている。解約理由聴取の目的は、回答を得ること自体にあるのではなく、会話を通じて得られる相手の態度、言動等から真の預金者ないし代理者かを調査するためのものであり、その限りでは、被告担当行員は注意義務を尽くしているというべきである。
(二) 原告は、払戻請求書の住所欄の記載がなされなかったことを過失と主張するが、預金規定上では、払戻請求書に届出印による記名押印が必要と定められているにとどまり、住所の記載は必要不可欠の要素とはなっていない。本件払戻請求書の右下の住所欄は払戻請求者に記載を求める欄の外にあり、この記載は、マル優の申告書代理作成時に記入が要求されるものであって、本件とは無関係である。
(三) 原告は、被告担当行員が原告の正確な生年月日を聴取した事実に疑念がある旨指摘するが、男が所持していた原告の預金通帳には、「コウノ ハナコ」の読みも記載されているのであって、男が正確な生年月日を知っていたことは何ら不自然ではない。
第三 争点に対する判断
一 右第二の二及び後記三の事実によると、被告担当行員は、男を預金者に代わって払戻しを請求する正当な権限を有する者であると信じ善意で本件期日指定定期預金の払戻しに応じたものと認められるから、被告担当行員が男を正当な権限を有する者と信じたことについて無過失ならば、右払戻しは債権の準占有者に対する弁済として有効となる。
そこで、以下、右払戻しに関し、被告担当行員が無過失であったか否かについて検討する。
二 満期日の指定がないまま期日指定定期預金を払戻す際の注意義務の程度について
1 期日指定定期預金の意義及び預金者が一箇月以上前に満期日を指定することにより、その指定日において満期が到来するということは当事者間に争いがない。
(一) 被告は、据置期間経過後の期日指定定期預金債権は、預金者が任意の時点で予告して払戻しを請求し得る一方、最長預入期間三年の定めがあるから右預金債権は、不確定期限付き預金債権であること、その際、一箇月の期間を置く利益は、専ら銀行のためにあるのであるから、満期日の指定がなくても、銀行はその期限の利益を放棄して自由に弁済することができ、かかる実体に着目するならば、期日指定定期預金の据置期間経過後の払戻しは、確定期限到来後の定期預金の払戻しと同様に考えるべきであると主張する。
なるほど、確かに据置期間経過後の期日指定定期預金は、不確定期限付き預金債権であり、銀行は、右一箇月の猶予期間を利用して資金準備等をなすなどその利益のために利用することができるものであるが、同時に例えば、本件のごとく盗難、紛失等の事故が発生した場合、少なくとも事故後一箇月間は、無権利者によって引き出されることはないという限りで真の権利者の利益も保護されることを否定することはできないというべきである。したがって、かかる期限の利益は、主として銀行のためにあるものとは認められるも、一定の限度で預金者の利益にも資することを認めるべきである。
(二) また、被告は、銀行実務は期日指定定期預金取扱い開始以来、据置期間経過後は期日指定を要求することなく払戻しに応じてきたこと、その結果、今日では、一般に期日指定定期預金利用者の間に期日指定を要することなく銀行が払戻しに応じる旨の認識ができていることを主張し、証人小畑笠下の証言中にも右主張を裏付ける供述部分があることが認められる。
しかし、右利用者に一般的にかかる認識が存在することを認めるに足りる証拠はなく、翻って考えると、かかる主張は、期日指定定期預金制度の本質に抵触するものであるとともに、各利用者と銀行との間で成立している期日指定定期預金契約の規定書の文言にも反するものというべきである。
(三) そうすると、期日指定定期預金の据置期間経過後の払戻しは、確定期限到来後の定期預金の払戻しと同一に解すべきであるとする被告の主張は採用できない。
2 据置期間経過後の期日指定のない期日指定定期預金払戻請求に対し、銀行は払戻しを拒み得ること、換言すれば、かかる請求に対し、銀行には直ちに払戻しに応じる義務がないことに争いはない。但し、銀行実務の上で、かかる場合においても払戻しに応じている場合のあることが認められる。
しかし、期限の利益は、右1の(一)のように一定の範囲で預金者のためにも認められるのであり、その無権利者への払戻しを少なくとも一箇月間は防止できるという利益の性質からして、銀行には、準占有者に対する弁済として免責を受けるためには、その払戻しに際して、一定の加重された注意義務が課されるものと解するのが相当である。
そして、右注意義務の程度につき、据置期間経過後の期日指定定期預金の払戻しは、確定期限到来後の定期預金の払戻しと同様に考えるべきであるとする被告の主張は、右1の(三)のとおり採用できず、むしろ、払戻請求に対し、直ちに払戻すべき義務を負わないこと及び真の権利者の利益が一定の限度で保護されることに鑑みると、満期未到来の確定定期預金債権の中途解約の場合に準じ得るのであり、その際に要求される銀行の注意義務の程度、内容についても、右期限未到来の確定定期預金債権の中途解約と同程度ないしそれに準ずる程度の注意義務を負うものと解することが相当である。
3 具体的注意義務の内容について
銀行が定期預金の中途解約、払戻請求に際し、預金者と払戻請求者の同一性確認のために行うべき手続については、従来、当該払戻請求に関し、右同一性に疑念を抱かせる特段の不審事由が存しない限り、原則として、<1>預金証書と届出印鑑の所持の確認、<2>事故届の有無の確認、<3>中途解約理由の聴取、<4>払戻し請求書と届出印鑑票各記載の住所氏名及び各押捺された印影の同一性を調査確認することをもって足り、筆跡照合や運転免許証、身分証明書、印鑑証明書、健康保険証等の呈示の要求、電話照会、直接訪問などの調査まで履践するには及ばないものと解されている。
期日指定のない期日指定定期預金の払戻請求の場合の銀行の注意義務の内容についても、右に準じて解するのが相当とするものであるが、本件のごとく、払戻請求者が預金者本人でないことが明らかな場合は、右<1>ないし<4>に加えて、<5>その者の払戻請求権限を明らかにする書面の提出ないし右権限を窺わせるに足りる事情の聴取、<6>その者の身分を特定する身分証明書等の呈示ないし少なくともその身分を特定し得る程度の事情の聴取をなすことが必要というべきである。
三 《証拠略》によると次の事実を認めることができる。
1 平成五年一〇月二二日午後二時三〇分頃、水色ないし緑色系統のジャンパー、作業用ズボンを着用した年齢三五歳~四〇歳くらいの男が、被告の静岡支店に来店し、窓口係秋山仁美(以下「秋山係員」という。)に対し、「甲野春子」名義の本件預金通帳と印鑑を差し出し、本件預金の解約を求めた。秋山係員は、「何かお金の入り用ができたのですか。」と尋ねたところ、男は、金が必要になった旨答え、同人を預金名義人本人と思い込んだ秋山係員は、男に対し、払戻請求書用紙を渡し、記入要領を説明した。男は、右払戻請求書の記名欄に「甲野春子」、金額欄に「¥三〇〇〇〇〇〇」と記入し、右甲野春子名義の印鑑を押捺し、本件預金通帳と共に右払戻請求書を秋山係員に渡した。秋山係員は、右払戻請求書の日付欄、口座番号、預金番号及び番号札の数字を記入した。男は秋山係員に対し、所要時間を尋ね、「水道工事の仕事を抜けてきたので急いでくれ。」といい、程なく「一寸仕事に行ってくる。」といい置いて、店外に出て行った。
2 秋山係員は、定期預金の確認、通帳残高の確認等のため、コンピュータ端末機を操作し「甲野春子」が女性であることを知り、男が預金者本人ではなかったこと、払戻請求金額が三〇〇万円であったこともあって慎重を期し、上司である小畑笠下営業課課長代理(以下「小畑課長代理」という。)に指示を求めた。小畑課長代理は、右了解し、秋山係員に払戻請求書に押捺されている印影と被告の保管している印鑑票に押捺されている届出印鑑とが一致すること及び盗難、紛失等の事故届のないことを確認させ、自らも右の各事項を確認するとともに、以後の対応を自らがなすことにした。
3 小畑課長代理は、被告の窓口業務が終了した後の同日午後三時〇五分頃、戻ってきた男を他の顧客のいない店内に入れ、店内の左端の窓口で対応した。その際、小畑課長代理が払戻金の用途を尋ねたところ、男は「金が必要になった。またお金ができたら預金する。」と答え、さらに小畑課長代理が「何か預金名義ご本人の保険証か運転免許証をお持ちですか。」と尋ねたところ、男は「なぜ預金を引き出すのに保険証や運転免許証を出さなければならないのか。」、「以前も解約したことがあるがその時にはそんなことは言われなかった。」と、離れたところにいた秋山係員にも聞こえるほどの大声で怒鳴り、それに対し、小畑課長代理は、本件預金通帳で確かめたところ、以前に解約した記帳がなされていたので、それ以上身分証明書等の提示を求めず、預金名義人本人の生年月日を尋ね、男が「昭和二五年一一月二八日」と被告の保管している原告の生年月日の情報と一致する回答を得たことから預金者本人の家族であろうと考えた。小畑課長代理は、その他、男が水道局に勤めている旨の話を聴くなどし、以上の結果、その他特に怪しいところもなく、払戻しを拒む理由もないと判断して、秋山係員に対し払戻しのための現金の用意を指示し、同人に対し、元金と同日までの利息(税金を控除したもの)の合計額三三一万三九二九円を本件預金通帳とともに交付した。
四 以上の事実に基づき、右二の3の具体的基準に照らして、被告担当行員の過失の有無を検討する。
1 本件期日指定定期預金の払戻手続に際し、被告担当行員は、男が本件預金通帳と原告の届出印鑑を所持していることを確認している。
2 払戻請求書に押捺された印影と被告の保管している印鑑票に押捺されている届出印鑑とが一致すること及び盗難、紛失等の事故届がないことを二名の被告担当行員により確認している。
3 被告担当行員は、男に対し、中途解約理由を尋ねているが、具体的な回答が得られていないにもかかわらず、それ以上の質問をなしていないことが認められる。
ところで、中途解約理由の聴取は、被告も指摘するように、理由を聴取すること自体が目的でないことはそのとおりであるが、その聴取した理由と払戻請求金額、その他の事情を併せ検討することで、払戻請求者の権利ないし権限の存否を判断するための資料を得るためになすものであり、請求者のプライバシーに立ち入ってまでの聴取を義務付けるものではないが、ある程度、右判断に資するに足る程度の具体的事情を払戻請求者との応対の中で聴取することが必要というべきである。本件についていえば、三〇〇万円という払戻請求金額に見合った解約理由があるのかを聴取する必要があったというべきであり、被告担当行員は、特段の事情がないにもかかわらず、重ねての質問をなしていない以上、その聴取は不十分といわざるを得ない。
4 《証拠略》によると、男は、払戻請求書に住所を記載していないことが認められるが、《証拠略》によると、被告における払戻手続において、住所が必要的記載事項となっていないことが認められ、被告担当行員において、払戻手続で要求されていない住所の記載を求めなかったとしても、そのことをもって過失であるということまではできない。
5 被告担当行員は、男が原告本人ではないことを認識していたにもかかわらず、男の払戻請求権限を明らかにする書面の呈示ないしは、その権限を窺わせるに足る事情を聴取しておらず、また、身分証明書等、男の身分を明らかにする書面の呈示を受けず、その身分を特定するに足る程度の事情の聴取も何らなしていない。
(一) 被告担当行員は、男に対し、預金名義人の保険証か、男の身分を証明するものの所持を尋ねているが、男が「なぜ預金を引き出すのに保険証や運転免許証を出さなければならないのか。」などと大声で応じたことから、それ以上、呈示を要求していない。本件預金債権は、期日指定がなされていない以上、被告担当行員としては、男に対し、払戻しを拒み得るものであること及び男が預金者本人ではないから身分証明書の呈示を受けることが必要であることを説明して、重ねて呈示を求め、ないしは身分を特定し得る程度の事情を聴取すべきであり、それをなしていない以上無過失とは認められない。
(二) 被告担当行員は、男から「以前も解約したことがあるがその時にはそんなことは言われなかった。」といわれ、男の所持していた本件預金通帳を見たところ、解約の記載があったことから納得してそれ以上の呈示を求めなかったとしているが、本件預金通帳にかかる解約の記載がなされていたとしても、右預金通帳は、男が所持していたものであり、その記載を事前に見ておればかかる発言をなすことは十分可能である。してみると、かかる発言から男に払戻請求権限があると判断することはできない。
(三)被告担当行員は、原告の生年月日を尋ね、被告の保管している原告の生年月日と一致する回答を得たことから男が原告の家族であろうと考えたとする。原告は、男が仮名である「甲野春子」の預金通帳を頼りに原告本人の生年月日を知ることは不可能であり、この点に関する証人小畑笠下の証言は虚偽であるとするが、被告も指摘するように本件預金通帳には「コウノ ハナコ」の記載がなされていたと推測され、かかる記載を頼りに何らかの資料により、男が原告の生年月日を知っていたとしても必ずしも不自然とはいえないのであるから、右証言を直ちに虚偽と断ずることはできない。
そこで、男が原告の生年月日を知っていたことを前提に考えるに、右事実は、男が原告と一定の関係にある者であることを推測せしめる事情の一つとはいえるが、そのことから直ちに男に正当な権限があると推測せしめる事情とまではいえない。したがって、右聴取は、男に権限があることを窺わせるに足る他の事情等と伴せて、男の正当権限を推測せしめ得る場合に限って、被告担当行員の無過失を基礎付けるものとなるというべきである。しかるに、被告担当行員は、男の右権限の存在を窺わせるに足る他の事情を何ら聴取していない。
五 以上によると、被告担当行員においては、<1>中途解約の理由、具体的には一箇月の指定期間を置くことができない請求者側の三〇〇万円の具体的必要性を何ら聴取していないこと、<2>男が本人ではないことを認識していたにもかかわらず、男に払戻請求権限があることを認めるに足りる事情を聴取しておらず、また、<3>男の身分関係をまったく特定していないこと、さらに、<4>身分証明書等の呈示を求めた際、立腹した男の態度からして十分不審な状況が窺えるにもかかわらず、何ら疑問を感じていないことが認められるのであって、これらの事実に本件が元金三〇〇万円全額の払戻しであることを総合すると、本件払戻請求を受けた際に被告担当行員としてなすべき注意義務を十分尽くしたということはできないのであって、被告には、右の点に過失があったものといわなければならない。
したがって、被告には、本件期日指定定期預金の払戻しについて無過失であったとは認められないから、男に対してなした本件払戻しは有効であるということはできない。
そうすると、被告の民法四七八条の主張は採用できず、したがって、原告の本件期日指定定期預金債権は消滅していないこととなる。
六 以上のとおりであるから、原告の被告に対する期日指定定期預金元金三〇〇万円及びこれに対する預入日である平成三年九月一三日から最長預入期限である平成六年九月一三日までの約定利率年六分と平成六年九月一四日から支払済みに至るまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める本訴請求は理由がある。
(裁判長裁判官 荒川 昂 裁判官 石原直樹 裁判官 小林直樹)